山梨県 笛吹市

VOL.26日本のどこか編_ローカリズム~編集長コラム【連載】

更新日:2023/02/20

昼と夜があって 光と闇がある そのバランスについて

地方都市の暗がりのなかで
静かに夜にまぎれ込んで

地方の夜は暗い。人口がある程度多い地方都市と呼ばれる場所でも、少し歩けば暗い。

もちろん東京だって広いから、暗い場所はいくらでもある。郊外の住宅街は明るくないし、東京にも田舎と呼ばれる場所だってもちろんある。だから地方が暗くて東京が明るいという二元論を持ち出して、どっちがいいと断じたいわけではありません。「僕は」ただ暗いところが好きだということが言いたくてこの文章を書いています。暗いですね・・・。

これを言ったら話はややこしくなりますが(でも言う)、東京って明るすぎるなあと思うことがあります。2011年の東日本大震災のあと、僕たちは計画停電というかつてない非常事態を経験しました。とにかくみんなで「無駄な電気を使わないようにしよう」と、日本全国が暗くなった。あのとき少し不謹慎かもしれないけど「ほんとはこのくらいでいいよな」と思ったことをおぼえています。

話を戻して、地方の夜の街は暗い。繁華街を少し離れれば街灯も足る分だけ、その繁華街だって一歩道を入るとまだまだ暗い場所がたくさんあります。そしていい店はその暗い路地の先にあったりして。僕はその暗い街を歩くことが大好きです。僕にとって旅の醍醐味というのは、その夜の街を歩くことだったりもします。

どうして暗い場所が好きなのか? たぶん僕はその「闇にまぎれ込む」感じが好きなのだと思います。日常はいつも「正しくあること」や「自分らしくあること」をなんとなく求められ、僕たちは自分のアクションに対しての他者のリアクションに、いつも気を奪われています。毎朝明るい場所に引きずり出される僕らは、常に他者との関係性の中で体を固くしている。もちろんある程度それは僕たちが生きることのルールであり、誰もが自分のやり方で、その日常と向き合っています。みんな必死で生きている。

だから僕たちにはそれぞれの夜が必要で、夜が来たらその暗さに自分が隠してもらえることで、バランスを取って生きているのだと思います。夜が「明るい場所」になってしまったら、僕たちは絶えず光にさらされ続け、そのバランスはきっと時間をかけておかしくなっていく。

旅先の街の知らないバーでよくお酒を飲みます。

たとえば僕の好きな高知には、路地の奥の奥、看板もない建物の2階に、深夜に焼きたてクロワッサン(絶品)が食べられるバーがあります。ブルーベリージャムをたっぷりとつけた熱々のクロワッサンとジントニックってもはやカオスですが、真夜中に食べるそのペアリングは、不思議とよく合います。

大分県の湯布院はバーの街で、温泉街の暗がりの中にいいバーが点在しています。お酒を飲んで夜の街に出ると、夜の早い温泉街はもう漆黒の闇夜です。バーのドアを開けてほの暗い部屋から真っ暗闇の世界へ戻ると、自分がどこか別の時空に迷い込んだような気分になります。

どこかの街の暗い場所の先にある、暗い部屋のいちばん端っこ。毎日という日常から少しだけ隠れた夜の静寂に、僕は静かに緩やかにお酒に酔っています。そこで僕は明るい場所でしてきた自分の間違った振る舞いや、そこにいない誰かのこととか、死んでしまった友達のことを考えます。そして考えることに疲れると、なにも考えずにまたお酒を飲みます。そこでは誰も僕のことなんか知らないし、気にしてもいない。小さな音でビリー・ホリデイなんかが流れていて、カウンターのすみに座ってる人は目を閉じてそれを聴いている。彼も多分、隠れている。

人生には旅が必要です。旅は僕にとって、知らない場所で自分がストレンジャーになれるもの。だから僕は今日もどこかの知らない街の夜の暗い場所にいます。いつかどこかの街で、僕たちすれ違えたらいいですね。真っ暗闇で気づかなくてもいいのです。すれ違っていても気づかない。そういうのもいいじゃないですか。なんせ、夜は暗いのですから。

Photo/KYOKA MUNEMURA
※メトロミニッツ2023年3月号より転載 

※記事は2023年2月20日(月)時点の情報です。内容については、予告なく変更になる可能性があります