群馬県,太田市

VOL.47_群馬県・太田市編_ローカリズム~編集長コラム【連載】

更新日:2024/11/20

日本のあちこちを旅して
出会った仲間たちが
今日もがんばっている

群馬県,太田市

決められた仕事ではなく
新しい仕事を作っていくこと

「つる舞う形の群馬県」と、かの有名な(群馬県民は全員知っている)上毛かるたの札にもあるように、群馬県は大きな鶴が羽を広げているような美しい形をしています。僕はその鶴の首根っこで栃木県と埼玉県に挟まれた場所に位置する太田という街に、もう6年近く通っています。

第二次世界大戦の終戦まで、この街には「中島飛行機」という東洋最大の飛行機製造会社があり、そこでは日本軍の戦闘機が作られていました。その中島飛行機は現在の「SUBARU」となり、自動車製造は今でもこの街の産業を支えています。車の部品を造るモノづくりの企業を中心に多くのクラフトマンが集まるこの街は、北関東有数の工業都市として知られているのです。

一方で、観光地としての見どころはそんなに多くないこの街で、僕はもう5年間にわたり、市の観光ガイドブックを市民のライターたちと一緒に制作しています。

群馬県,太田市

きっかけはもう7年ほど前のことでした。今でも一緒に仕事をしている太田市役所の1人の職員が会社を訪ねてきました。そこで彼はこう言いました。「古川さん、僕らの街の市民で作るガイドブックの先生をしてくれませんか?」

そのとき僕はまだ、ただのメディアの編集者(今でもそうですが)でした。会社には彼の提案に応える仕事のメニューのようなものはありません。でも僕はその仕事を直感的に「やってみたい」と思いました。彼の情熱に引き込まれるように、僕は不安よりも希望を感じたのです。

そうして始まったこの仕事で、僕は一般の市民に雑誌制作を教える講師となりました。でも僕には編集者としてのキャリアはあれど、講師の経験はありません。歌を作れる人が、歌をうまく歌えるとは限らないのと同じように、僕に誰かにものを教える能力があるのか? 僕は不安を振り払うように、志願して集まってくれた太田市の市民ライターのみんなと一緒に、夢中になって街を歩きました。

でも、なにもないと思っていた街は、歩くほどに豊かな喜びに満ちあふれていました。おいしいお店も、素晴らしいモノづくりも、そしてなにより温かな人たちも。いつしか僕は(今もずっと)この街に来ることが楽しみで仕方なくなりました。

僕が「暮らし観光」という言葉に本当の意味で腹落ちできたのは、この街に出会ってからだと思います。世界中のすべての街に暮らしがあり、そのなんでもない暮らしこそ、かけがえないし、おもしろい。それを教えてくれたのは、一緒にこの街で表現を学んだ市民ライターの仲間たちでした。

群馬県,太田市

それから5年、僕が教えた市民ライターたちは、街の中でどんどんクリエイティブな発信を行うようになっていました。中心メンバーだった女性はスコーンを焼き始め、ついにお店をオープンしました。みんなのまとめ役だった彼女は、自分の住む藪塚というエリアを起点にした「藪塚通信」というメディアを運営しています。「まちなか図書館」という企画で家の前に私設図書館を設置した女性もいれば、カッコイイ洋服を作るようになった若者もいます。

みんなが自分の頭で考えて、自分の街で自分の表現活動を始めたのです。でも僕はそんなことは教えていません。僕がみんなに伝えられたことがあるならば、ないものを創り出すことの「おもしろさ」だけだったと思います。市民ライターにモノづくりを教えているつもりが、教えてもらっていたのは僕の方でした。行動すれば、必ずなにかが変わるということを、彼らが僕に見せてくれました。

最初に書いたように、きっかけは市役所の職員の情熱でした。それを「僕の仕事じゃない」と断っていたら、僕はこんな気持ちになれなかったと思います。リスクを取ったから、喜びが生まれた。それを太田のみんなが教えてくれた。

5冊目の「太田マガジン」が、ちょうど太田市に並び始めました。駅前に「太田市美術館・図書館」という美しい美術館を併設した図書館があります。そこでその本を手に取っていただき、そこから太田という街を歩いてみてください。そこには豊かな暮らしがあります。

※メトロミニッツ2024年12月号より転載 

※記事は2024年11月20日(水)時点の情報です。内容については、予告なく変更になる可能性があります