ロックバンド「クリープハイプ」のフロントマンとして活動するかたわら、文芸誌に作品を発表し続ける尾崎世界観さん。30時間の行き先は、ノーベル賞作家・川端康成が『伊豆の踊子』を執筆するなど、名だたる文化人とゆかりが深い伊豆の老舗宿「川端の宿 湯本館」です。この場所を選んだ理由は? 「書く」こととの向き合い方は? 尾崎さんの頭の中をちらりとのぞき見するような、小さな旅が始まります。
好きなのに、うまくできない。
だから書きたいと思うんです
「これまで執筆のために宿に泊まったことはないんです。でもこういう場所は、前からいいなと思っていて。建物自体、昔の人に合わせて作られたサイズだから、都心の新しいホテルと違って、いろいろなものがちょっと小さい。空間に合わせて自分の動きも小さくなるような感覚があると、より創作に入り込める気がします。さっき川端康成が『伊豆の踊子』を書いたという部屋を見学したら、その部屋も四畳半くらいでした。予想以上に狭くて、共感というか、すごくいいなと思いました。今住んでいる家にも文章を書くための部屋があるんですけど、狭いし、机もわざと小さいものにしています。広くて余っているより、ちょっと足りないくらいが落ち着くんです。
同じ文章でも、曲の歌詞と小説は真逆の存在です。歌詞は短距離走。10mくらいを突っ走る感覚で、そうじゃないと音に乗らない。小説は単純に分量が多いから、長く続けるための走り方を考えながら書かないといけません。それに、歌詞は歌えば自動的に耳に入るけど、小説は読まれなければいけないし、読ませなければいけない。そこがすごく難しいです。自分自身、子供の頃からなにをやってもうまくいかなかったけど、音楽は長く続けていたらどうにかなった。やりたいと思って形にできた唯一のものが音楽で、それが嬉しい反面、怖くもあるんです。今、ちゃんと『好きなのにできない』のは小説だけ。だからこそ小説に憧れと執着心があるし、それが書くモチベーションのすべてです。
今回、目的地に文豪が泊まっていた宿を指定しておいて、実は文豪と言われる人たちの作品をそんなに読んでいないんですよ。世間で『名作』と言われる作品はよいに決まっている。音楽もそうです。実は、これまでビートルズをちゃんと聴いたことがないんです。『ビートルズを聴かずに音楽をやっている話、どっかで使えるかも』と思い続けて、ここまで来ました(笑)。既に評価されている作品より、これから残るか残らないか、まだわからない作品に興味があるんです。
そう言えば最近、旅をしたくなる瞬間が増えました。これまで音楽も小説も頭の中で完結させていればよかったのが、40歳を前にして、もっと体験したい、体験しなきゃいけないと思いはじめて。今日伊豆まで来て思ったのは、ある場所に外から人が来ると、それだけでその場所の価値が変わるということ。例えば今目の前にあるこの机、柄が不思議でめちゃくちゃいいなと思ったんですけど、普段は当たり前にここにある。そこに新しく人が来て『なんだこれ?』と感じることで、新たな意味が生まれるんだと思います。ただ、旅の行き先によっては、期待値の80%くらいのときもあるんですよね。でも100%じゃない部分があるからこそ、また旅に出たくなるのかもしれません」
\文豪の足取りに触れる温泉タイムトリップ/
新幹線とローカル線を乗り継ぎ、終点からさらにバスで伊豆の奥地へ。東京から約2時間半、山の気配に包まれるひなびた温泉郷・湯ヶ島にひっそり佇む「川端の宿 湯本館」は、明治38年創業の老舗宿。不意に着物姿の踊子が現れてもおかしくない、古きよき温泉宿の情緒を残します。
この場所の歴史を彩ってきたのは、たまたま宿泊し気に入って以来1000日以上も滞在した川端康成はじめ、逗留しながら歌を詠んだ歌人の若山牧水、川端とも親交があった宇野千代など、明治・大正・昭和をまたぐ文壇のスターたち。彼らが感じていた空気感を現代にいながら追体験できる、文学ファンにはたまらない場所なのです。浴衣に着替えた尾崎さんがくつろぐのは、まさに牧水が滞在した部屋。窓を開けると、すぐそばを流れる狩野川のせせらぎと鳥のさえずりだけが聞こえます。「いいところですね」と、尾崎さんも床にゴロン。
静かな環境で思う存分執筆に打ち込み、一息つきに温泉へ。部屋に戻ったら温泉まんじゅうとお茶でチルして、また執筆。宿は泊まるだけ、後は街に出てアクティブに楽しむ旅が流行っているけれど、宿から出ない“おこもり旅”の方が、ぜいたくな気がするのはなぜでしょう。チェックアウトぎりぎりまで滞在を満喫したら、30時間のタイムリミットは意外とあと少し。文豪たちの気配を背中に、のんびり電車に揺られて東京へ――。小さな時間旅行を終えてみれば、いつもはわずらわしい都会の喧騒が、少し懐かしく感じられそうです。
〈静岡県〉
川端の宿 湯本館
TEL.0558-85-1028
住所/静岡県伊豆市湯ケ島 1656-1
1泊2食付き17600円~(2名1室、1人分料金)
PHOTO/KOTORI KAWASHIMA STYLING/HIROAKI IRIYAMA HAIR&MAKE/MIKU SHIGEYAMA WRITING/RIE KARASAWA
※メトロミニッツ2024年4月号より転載