山梨県 笛吹市

VOL.31_神奈川県・箱根町編_ローカリズム~編集長コラム【連載】

更新日:2023/07/20

北欧のフェルメールと呼ばれた 天才画家ヴィルヘルム・ハマスホイ 2枚の絵画を巡る土曜日の冒険

寡黙で静謐なその絵に残された
今そこに「いないもの」の気配

7月最初の土曜日の朝の天気は荒れていて、そのあまりに激しい雨音で明け方に目が覚めました。その日僕は箱根に行く予定でした。しかし夜のうちなかなか眠れず、やっとまどろんだ意識の中でその雨音を聴き、「もう起きて行かなくちゃ」と思ったのもつかのま、僕はまた眠ってしまったようでした。

次に目が覚めたとき、時計はもう正午になろうとしていました。「このまま休日をつぶしてしまうのかな・・・」と思いつつ、ふと気づけば外の雨音が消えています。どうやら眠っているうちに雨はあがったようでした。

意を決して起きて表に出てみると、雨上がりの街が洗われたみたいにきれいで、どこかからくちなしの花の香りがしていました。それで気をよくした僕は、箱根に向かう電車に乗ったのです。

箱根に行きたかったのはその週末で終わってしまう(夏休みの宿題は夏休み最終日にやるタイプ)ポーラ美術館の「部屋のみる夢」という展覧会を観たかったから。もっというと、その展覧会に掛けられているハマスホイというデンマークの作家が描いた2枚の絵が観たかったからでした。

ぼんやりと電車に揺られながら「そういえばポーラ美術館ってどう行くんだろう?」と今さらながらにスマホで調べると、いちばん楽に行ける小田原と箱根湯本駅から出ている直通バスの時間はもう過ぎてしまったことがわかりました。そして乗り換えアプリはさまざまな選択肢を僕に提示していましたが、そのどれも「けっこう面倒な道程」になっていました。その中から僕はなんとなく直感で、小田原駅から路線バスを2回乗り換えて美術館に到着するルートを選びました。

電車の乗り換えは慣れていますが、路線バスの乗り換えをする機会はあまりありません。それに加えて箱根という慣れない土地で、結果的にそれは一筋縄ではいかない午後になりました。バスは時間通りに来ない。乗り換えのバス停が降りたバス停と微妙に違う場所にある(もちろん誰も教えてくれない)。山の上は寒い・・・。山奥のバス停でひとりぼんやりとバスを待ちながら、自分の救いようのない計画性のなさを呪いつつ、僕は「まあいいやなんだって」という気分で、いっこうにやってこないバスを待ち続けました。猫バスでもやってきそうな深い霧が、山を覆っていました。

そうしてやっとのことで辿り着いた美術館は、森の中に突然現れた、異世界に建てられた白い箱のようでした。それは建築的にも、森との調和も、屋外の遊歩道に飾られた展示も、すべてが美しい均衡のもとに成り立っていました。

今でこそ「北欧のフェルメール」とも呼ばれるハマスホイですが、彼もフェルメール同様、没後にいちど世界から忘れ去られた作家でした。コペンハーゲンの国立美術館さえも、彼の作品を常設展示から外していたこともあったそうです。

ポーラ美術館で展示された2枚の作品は、どちらも彼の絵を代表する室内画でした。その特徴を言葉にするなら、僕にはそれは「そこに少し前までいたけれど、今はいないなにかの気配」のようなものだと感じました。言い換えるならば(うまく言い換えられていないけれど)「静謐さの中で止まったような、でも静かに動いている時間」をみごとに描き出していると。

メランコリックで色彩を排したその世界は、心の中に水が流れ込むように静かに僕に迫ってきました。かつて作家であるハマスホイがその部屋に確かにいた現実、その時間が存在していたという事実、その彼が見ていた世界に、思いを馳せずにはいられませんでした。そして僕はその2枚の絵の前で文字通りしばらく立ち尽くしてしまいました。それは土曜の冒険のクライマックスに相応しい、なかなか得難い体験でした。

小田原の駅前でかまぼこをアテに日本酒を飲みながら、いつかコペンハーゲンに彼の絵を観に行きたいと思いました。そしてあの不思議な絵画との邂逅を思い返して「ハマスホイが好んで描いたうしろ姿の女性はなにを意味しているのだろうか」と、酔っぱらった頭でぼんやりと考えていたのです。

※メトロミニッツ2023年8月号より転載 

※記事は2023年7月20日(木)時点の情報です。内容については、予告なく変更になる可能性があります