近所にいいパン屋があることは、暮らしの質を上げる大切な要素のひとつ。そこで今回はパンを介して町中に幸せな日常を広げている神奈川県二宮町の「ブーランジェリー ヤマシタ」を訪ねました
開店に合わせ、小さな店内にびっしり とパンが並ぶ。丁寧に作ら れた ※今年6月にパンの価格変更があり、 現在、写真の価格とは異なります
日々の糧を求めて地元の人々が訪れる町のパン屋さん~~Boulangerie Yamashita
飾らない普段着のパンを、誰かの日々の幸せのために
小さな店内に並ぶのは、奇をてらわない日常のパン。日々の暮らしに欠かせないパン屋として愛される理由は、食べる人の幸せを願うパン作りにありました。
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幹線道路から少し入った旧道沿いを歩いていくと、大きく枝を広げたニッキの木の下にその店はありました。クリーム色の壁に、ほんのりくすんだブルーの扉。元は美容院だったという古い家屋を再生した建物は、まるで絵本の世界に登場するパン屋さんのようです。
開店時間の10時が近づくと、パンのふくよかな香りに誘われるように次から次へとお客さんがやってきます。店内の棚には、ハード系の食事パンを中心に30種類ほどのパンがぎっしり。華美な見た目のものはありませんが、どれも食べてみたいと思わせるものばかりです。
奥の食堂でフレンチトーストをいただいてみました。弾力のあるカンパーニュを平飼い自然卵のアパレイユにくぐらせ、網焼きにするのがヤマシタ流。食べ進めるごとに麦とバターの香りが口いっぱいに広がり、思わず頰が緩みます。
ふと周りを見渡すと、ほくほく顔でパンを頬張る人たちの姿が。北欧のビンテージチェアや本を並べた空間も心地よく、ここが多くの人を幸せにしている理由がわかります。
「パンはもちろんですが、ヤマシタで過ごす時間を通じて、心が温かくなるようななにかを届けたいんです」と話す、店主の山下雄作さん。
「パンについては、ホッとするような素朴なパンでありたいと思っていて。毎日食べてほしいから、値段もできるだけ抑えめにしています」
とはいえ、粉は北海道産小麦、塩はゲランドの塩、砂糖はブラジル産オーガニックシュガーと、可能な範囲で上質な素材を厳選。デンマークの旧友が持ってきてくれたリンゴで起こした酵母を継ぎ足しながら使っているのも、密かなこだわりです。
「正直、パンの味には影響しないんですけどね。でも大切な友人の気持ちをのせることで、より想いのこもったパンが作れると思っています」
気取りのない、日常に寄り添うパンを作りたいという山下さんのフィロソフィーの源流は、パン職人になった経緯にあります。北欧の高級家具メーカーで約10年、店長として青山や銀座の店舗を任されていた山下さんがパン職人に転向したのは、ある人の忠告がきっかけでした。
「本当にやりたいことや大事なものが見えていないのでは?と指摘されたんです。当時の仕事には自分なりに満足していましたが、実際は家と職場の往復で、家族のことはまったく顧みていなかったんですよね」
昔からずっと自分の手でものを作ってみたいと思っていた。けれど、いつの間にか消費中心の都会生活に飲まれてしまっていたことに気付いた山下さんは、思いきって仕事を辞め、新しい人生を模索し始めました。
「これからの人生は自分を満たすためではなく、誰かの幸せのために生きていきたい。そう考えたときに、人の暮らしの基本にある、日常の食に関わりたいと思ったんです」
パン職人になろうと一念発起したものの、当時は薄力粉と強力粉の違いも知らないまったくの素人。すでに30代に突入していた山下さんは、崖っぷちの状態で地元ベーカリーに飛び込みました。そこで必死にプロの技を学び、3年後に独立。
開業にあたり二宮を選んだのは、自然が豊かで、都会の価値観からもほどよく距離を置ける環境だったからだそう。
「菜の花が満開の季節に店の裏手にある吾妻山に登って、その景色に感動したことも決め手になりました」
食堂で使うお皿やカップを鮮やかな黄色で統一しているのも、そのときの気持ちをおすそ分けしたいから。
菜の花の花言葉は“小さな幸せ”。誰かの日々の小さな幸せを願いながら、今日も山下さんはコツコツとパンを焼き続けるのです
町に広がっていく 日々のパンと 愛すべき二宮暮らし
ちょうどいい町に広がる
小さいけれど確かな幸せ
この日出会ったお客さんの中には、「おいしいものはみんなでシェアしたいの」と両手いっぱいのパンを買っていく人も。パンを通じてつながる人の輪が、この町の暮らしをさらにおいしく、楽しくしています
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「ちょうどいいんですよ」。二宮での暮らしについて尋ねると、町の人たちはそう口を揃えます。都心や横浜への通勤圏内にありながら、海や山などの豊かな自然に囲まれた二宮町。近隣の大磯や小田原に比べるとこれといった観光名所は少ないものの、田舎すぎず都会すぎない町の規模と、のんびりとした空気がちょうどいい、と。そんな彼らの穏やかな日々を支えているのが「ブーランジェリー ヤマシタ」のパンです。
「1歳半の息子もここのパン・ド・ミが大好きなんです」と話す川村哲平さんは、仕事帰りにヤマシタに立ち寄るのが日課。一方、「パンがおいしいのはもちろんなんですけど、それだけじゃなくて、ヤマシタさんを起点にこの町の人たちがつながっている感じ」。そう教えてくれた清水久子さんは、食堂の一角でお弁当の販売を始めたことをきっかけに交友関係が広がり、二宮での暮らしがますます楽しくなったと笑います。
ヤマシタの食堂では、清水さんのお弁当の販売のほかにも、写真展や演奏会などのイベントも不定期で開催。パンを買うついでに気軽に上質なアートや音楽に触れられるところに、二宮の豊かさが表れている気がしました。
山下さんの真摯なパン作りに共感し、自分の店の料理に取り入れている人もいます。あるときは華やかなオープンサンドに、またあるときは滋味に富むスープの名脇役として。主張しすぎず、どんな料理にも“ちょうどよく”寄り添うヤマシタのパンは、まさに町の日常食。小さいけれど確かな幸せを、日々運んでいます。
PART1■SHOP & SHOKUDO~Boulangerie Yamashita
ヤマシタのお店と食堂が人と人をつなぐ地域のハブに
「毎朝の食パンはここのパン・ド・ミじゃないと」
「ヤマシタさんのパンは質がいいのに気取ってないところが好き」と微笑む、日用品の店「日用美」(@nichiyobi_asakawa)の浅川あやさん。のびのびとした子育て環境を求めて鎌倉から移住して早6 年。この日は友人の鞄作家・こうだかずひろさん(@kodastyle)とともに、大好きなフレンチトーストでゆったりモーニング。
「このお店があるから町の人たちとつながれる」
「毎日の食卓に欠かせないのが全粒粉の食パン。あんバターを外のベンチで食べるのも好きです」。藤沢から二宮に移り住んだ革職人の佐藤拓さん(@takuyama_and_co)• 芙美さん夫妻がいつもヤマシタに立ち寄るのは、愛犬の散歩の途中。「犬を連れていると必ず誰かが声をかけてくれるのも二宮のいいところですね」
「価値観の合う人たちとお店を通じて知り合えた」
「菜と根や」(@natoneya_bento)の屋号で季節の野菜を使ったお弁当の販売をしている清水久子さんも、常連客のひとり。「今日買ったのはたまごサンド。ヤマシタさんのたまごサンドはいい素材を使っているから、罪悪感なく食べられるんです」。パンを買うついでに山下夫妻とおしゃべりするのも楽しみのひとつ。
「おいしいのはもちろん、お店の方が優しいんですよ」
ヤマシタでパンを買い、吾妻山の山頂で海を眺めながら食べる。今年1月に二宮に引っ越しして以来、そんな絵に描いたような幸せな休日を送っているという川村哲平さん(@tekuteku1389)一家。「ヤマシタさんがなかったら二宮に移住していなかったかも。今は仕事帰りに立ち寄って、パンを選ぶのが至福の時間です」
PART2■CAFE in TOWN
料理に寄り添うパンは町のカフェでも出会えます
美しい見た目にもうっとり
素材際立つオープンサンド
人気のオープンサンドにはヤマシタのパン・ド・ミのほか、地元で育った旬の自然栽培野菜をふんだんに使用。店長の石原すみれさんは、「山下さんの人柄や仕事への思いを尊敬しているので、そういう方が作るパンを料理に取り入れることが、自分の自信にもなっています」と誇らしげです。ヤマシタのたまごサンドと同じ「コッコパラダイス」の平飼い自然卵で作るプリンや、見目麗しい季節のパフェも必食。
Coral cafe
コーラル カフェ
TEL.0463-68-2126
神奈川県中郡二宮町中里2-19-18
営業時間/8:00~ 17:00※ディナーは月1営業
月・火定休
旬の恵みをふんだんに
身体に嬉しいベジランチ
「カフェの開業を迷っていたとき、山下さんの存在が背中を押してくれた」と話す、店主の工藤春美さん。お店では季節の野菜をたっぷり使ったポタージュスープにヤマシタの食パンを添えて出していますが、このメニューがきっかけで野菜嫌いを克服したお子さんも多いそう。建築家のご主人が設計した店内には靴を脱いで上がれるお座敷もあり、大人も子供も時間を忘れてゆったりくつろげます。
わらさん
TEL.0463-26-5670
神奈川県中郡二宮町二宮371-1
営業時間/水〜金11:30〜 15:30
土~火定休
PHOTO:MASAHIRO SHIMAZAKI TEXT:NAOKO OGAWA
※メトロミニッツ2023年7月号特集「こんな町に住んでみたい」より転載