メトロミニッツローカリズムの編集長・古川が日本全国をめぐって出会ったモノコト、そこで感じたコト・考えたコトを思いのままに綴りました。古川の視点で切り取られた、ローカルのよさを再発見してみてください。今号は日本のどこか編「歩くことで出会える物語」です。
歩くことで出会える物語 そこに含まれる思考という行為 踏み出す足が、リズムをつくる
いにしえの人たちが信じ、歩いた
信仰の道を、いま歩いている
古道歩きにハマっています。古道といってもなかなかぴんとこない人も多いと思いますが、たとえば和歌山県の「熊野古道」とか、関東でいうと「鎌倉街道」や「大山道」という道の名前はご存知かと思います。あれです。
高速道路やバイパス、鉄道といった交通インフラが整備された現代では、わたしたちの移動は電車や車が主流となりました。しかしほんの少し前までは、人々は日本中を徒歩で移動し、道を歩いていました。そしてそれらのいにしえの道は、国道やバイパスの近くに今でも変わらず存在しています。
たとえば「大山道」は相模国大山の阿夫利神社まで続く道で、関東各地にその道が現存しています。
大山を参拝する「大山詣」は、江戸時代に盛んにおこなわれました。人々はこぞって江戸から歩いて5日ほどかかる大山を詣でたといいます。そして大山詣は一例にすぎず、現代に残された多くの古道は、このように信仰と密接につながっています。それは巡礼道としての機能を果たしていたのです。
といっても、たとえば現代の大山道はふつうの田舎道。住宅があり、田んぼがあるただの道です。僕はその道をただ歩いています。昔の人に怒られそうですが、ネット上にはその古道を3時間や5時間といったコースに分け、点在する神社やお寺を詣でながら歩くコースがいくつもあって、最近の僕はそのコースを歩いているのです。
週末の土曜日、水筒の中には冷たいコーヒー。降りたことのない駅に降り立ち、人のいないロータリーで地図を見ながら「さあ、今日はどんな道なんだろう」と考えるのはワクワクするものです。
歩くというのは、見ることだと思います。車や自転車だと通りすぎてしまうものが、歩いていると見えることがあります。たとえば「道祖神」は外来の疫病や悪霊を防ぐものとして村境や辻に建てられた神様ですが、それらは今でも街道脇にひっそりと残されています。
それから「庚申塔」もあちこちで見られます。僕は「庚申信仰」のことを古道脇の看板で知りました。庚申というのは昔の暦。60日に1度やってくるその「庚申の日」は、人間の体内にいる虫が眠っているあいだに体から抜け出し、その人の罪を天の神に告げて早死にさせてしまうという言い伝えがあり、人々は庚申の日には集落で集まって眠らずに夜を明かす「庚申待」をしたそうです。
同じように「月待ち」というロマンチックな信仰があります。文字通り月を信仰の対象にし、月例の日に月を待ちながら経を唱える民間信仰です。その信仰の地には「十三夜塔」や「二十三夜塔」といった塔が街道脇に残されています。
みんな、なにかに祈り、畏れを抱き、なにかを信じた。世界がもっと暗かったから、そしてわからないことが多かったから、みんなで集まって祈ったり夜通し起きていたのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになります。
街道に残された多くの信仰や暮らしの気配は、時がそれを風化させてしまったものもあれば、説明書きの看板とともに今でも大切に地域で護られているものもあります。寺社仏閣だけでなく、お地蔵さんや石仏など、古道には祈りの対象が多く残されているのです。
お腹が減ったら、街道筋の食堂でお昼をいただきます。いつも行き当たりばったり、歩く場所によって出会うお店も変わってきます。瓶ビールを頼み(週末の昼に飲む瓶ビールのうまさよ…)、食べたいものを食べます。そして歩き疲れた体を少しだけ休めたら、また午後の古道ウォークの始まりです。
どうしてそんなことをしているのか? 僕も我ながら「暇だな」と思いますが、別に暇だから歩いているわけではありません。僕はその「知らない場所を歩く」という行為に、宿命的に惹かれているのだと思います。かつてそこにあった暮らしや、そこで行われていた祈りについて思いを馳せ、自分がいま抱えている整理のつかない気持ちについて考える。気づけばなにも考えずにただ足を動かしていることもある。僕は歩くという行為の中に持ち込めることが好きなのだと思います。たとえば思考とか、無心とか。歩きながら考える(ときどき考えない)のが、ただただ、好きなのだと思います。
※メトロミニッツ2023年7月号より転載