岩手県盛岡市
カルチャーのあるこの街は クリエイティブに敬意があり なんとも情緒的な本がある
日本中探しても『盛星』を超える
地域ガイドは見つからない・・・
「4年間の学生生活が終わった。わたしのこの街での最後の言葉は『盛岡駅までお願いします』でした」
岩手県盛岡市で創られている『盛岡という星で』という雑誌の表紙に、タイトル以外で書かれている唯一の言葉がこれでした。僕はこの本に出会って以来、盛岡という街が日本でも指折りの好きな場所になりました。静かで、カルチャーがあって、品がある。
昔から「カルチャー」という概念が好きで、洋服でも音楽でもお店でも、僕はそこにカルチャーがあるものを静かに選んでいます。カルチャーや文化という言葉を使うとそれは集合概念のように感じますが、その言葉の基本は、そこに「その人のまなざし」があるかどうか?に尽きると思います。そのまなざしの集合体を便宜的に僕らはカルチャーと呼んでいるだけで、僕が好きなのはその「人のまなざしが感じられるもの」です。
盛岡にはふたつの素晴らしい地域紙があります。『てくり』と『盛岡という星で』。ともにカルチャーを感じる素晴らしい本です。そこにはもちろん盛岡の「情報」が載っています。でもそれ以上に、そこにはこの街の「温度」や、大げさに言うならこの街で人が生きている「息吹」のようなものまで感じられます。それが観光の「役に立つ」かどうかはわかりません。でもその「人の生きている気配」には、僕たちをその街に足を運ばせるだけの強い力があるのは事実です。少なくとも僕はそう感じる。きっと僕たちはもう、観光がしたいのではなくて、誰かのまなざしの追体験がしたいのだと思います。
クリエイティブというのは板の上を流れる水のようなもので、気を抜くと低き方に流れていきます。その根源にある「思い」や「情熱」も、僕の言う「まなざし」も、可視化して相対化することが難しい。そうすると僕らはすぐに、それを評価するために「数字」という物差しを持ち出してくる。何冊売れたか? 何人の人が読んだか? みんな評価が大好きなんですね。でも、誰かにどれくらい深く届いたか?は、いつもその評価の対象外です。僕たちクリエイターは、その(土俵違いとまでは言わないけど)難しい場所で表現し、静かに抗い、ときに傷つきもしている。
でも『てくり』も『盛星』も、その最初に消えがちな「まなざし」が、最初のまま伝わってきます。驚くべきは『盛岡という星で』は、市役所と盛岡のデザイン会社が共同で作っていること。行政の仕事(失礼)で、これができることは驚きしかなくて、僕はこの本を開くたびに、1人のクリエイターとして東北に向かって頭を下げたくなるのです。
Illustration/YOSHIE KAKIMOTO
※メトロミニッツ2022年3月号より転載