観光旅行以上、移住未満。ローカルの日常を暮らすように楽しむステイケーション。いい本屋のある町はいい町だ、とよく言われますが、「いい本屋」とは、私たちと町をつなぐ窓のようなもの。いい本屋を足がかりに町をのぞいてみれば、きっと知らなかったもうひとつの日常に出会えるはずです。そこで今回は、松本を訪れる理由となる本屋「栞日」の菊地さんに栞日の本と活動の話を聞いてきました。
松本を訪ねる理由は、本屋「栞日」があるから
”自分なりのスターバックス”をこの町に作りたいと思ったんです
北アルプスの山稜を望む長野県松本市。民藝、クラフト、演劇、音楽などさまざまな文化が根付くこの町に、「栞日」はあります。場所は松本駅からあがたの森公園へとまっすぐに伸びる大通りの中ほど。ガラス扉を開けると、店主の菊地徹さんが満面の笑顔で迎えてくれました。
「ここに来る前どこか寄りました?ああ、珈琲美学アベ。あそこのお父さん、最高ですよねえ」
本屋の店主というより、気さくな町のお兄さんといった雰囲気。店内に並ぶ本はリトルプレスやZINE などエッジの効いた独立系出版物が中心ですが、近寄りがたさがまったくないのは、菊地さんの親しみやすいキャラクターによるところが大きいのかもしれません。
静岡出身の菊地さんが、ここ松本に「栞日」を開いたのは8年前。その経緯は、実に意外なものでした。
「本屋をやりたかったというより、誰かの居場所をつくりたかったんですよね。僕はもともと国際協力に関心があって、大学では国際関係学を専攻したんです。でもいざ勉強し始めると、扱うスケールが大きすぎて、果たして自分がやる意義があるのだろうかと疑問が湧いてしまって」
そんな折に始めたのが、スターバックスコーヒーでのアルバイト。これが大きな転機となります。
「お客さんは近隣の方が多かったんですが、みんなお店に入ってきたときより、出て行くときの方が少し上向きな気持ちになっているのが表情からわかるんです。僕が淹れたコーヒーや交わした会話でそれが叶うのであれば、これこそ自分の性に合うスケールの仕事だなと思ったんですよね。そのときから、“いつか自分なりのスターバックスを作りたい”と考えるようになりました」
自分なりのスターバックスとはつまり、地域の人が自宅や職場以外でホッとできるような、もうひとつの居場所のこと。屋号は大学の講義中にノートに書き出して考えた結果、「栞日」に決めました。
「日常に栞を差す日という意味で、日々の句読点となるような場所を作れたら、と」
その「栞日」を作る機会は、それから6年後にやってきました。場所は大学卒業後に就職した温泉旅館のある松本です
「なんの店をやろうかと、いざ町を見渡してみると、本屋のバリエーションが少ないことに気付いて。当時の松本には大きな新刊書店やいい古本屋さんはあったけれど、インディペンデントなセレクトブックストアはなかったんです。松本は物づくりをしている方も多いので、彼らのクリエイティビティを日常的に刺激する場所があってもいいのではないかと思ったし、僕自身もともと本が好きで、好きなものならやり続けられるという思いも後押ししました」
それから8年。その間、栞日は旧店舗から数軒隣の今の場所へ移転をしました。新しいお店は面積が約2倍に。棚も大きくなり、アートブックなどより尖った本にも出会えるようになりました。その後、旧店舗を中長期滞在者向けの宿「栞日INN」に改装、一昨年には蔵を改装したギャラリー「栞日分室」も誕生しました。
「自分の中で次のステージが開けたなと思うのが栞日INNの開業ですね。都会で暮らす人が一時的なワークスペースとして使ったり、移住検討組にとっては地元の肌感を感じられる場所を作れたのかなと思います」
この町の日常と地続きの場所を作りたい。菊地さんの中でそうした思いがさらに強まった頃、さらなる転機が訪れます。なんと、通りを挟んで向かいにある銭湯「菊の湯」の経営を引き継ぐことになったのです。
「実は継承のお話をいただく前から、銭湯のあるこの町の風景を守りたいと考えていて。銭湯って、地域のおじいちゃん、おばあちゃんが集まって、毎日のように井戸端会議が繰り広げられているじゃないですか。こういう地域にとって欠かせない居場所作りこそ、僕がやりたかったことだと。学ぶべき場所がこんなに近くにあったと気付いたんですよね」
わずか22坪の小さなお店から始まり、今では宿にギャラリー、さらには銭湯と、本屋の域を超えて活動の幅を広げる菊地さん。
「事業内容がバラバラですね、とよく言われるんですけど、自分の中では全部『栞日』なんですよね。すべてに共通しているのは、もうひとつの居場所であり、シェルターのような場所だということ。日常からはぐれる先がここにあるから、たまにははぐれていいんだよ、とささやくようなね」
ここまで話を聞いて、わかったことがあります。「栞日」での時間が心地いいのは、ここに誰をも受け止めてくれる優しさがあるから。
『すこしはぐれて あすは栞日』
店頭に置かれている栞には、ウチダゴウさんによる美しい詩の一節が書かれています。慌ただしく流れていく毎日に栞を差すように、ほんのひととき立ち止まり、他の町の日常を感じてみる。人生にはときにそんな時間も必要で、だからこそ私たちは栞日に足を運ぶのかもしれません
今回、お話をお伺いしたのは菊地徹さん
- 栞日代表。1986年静岡県生まれ。本屋、喫茶、宿、ギャラリー、銭湯を営むほか、ブックフェス「ALPSBOOK CAMP」を主宰。プライベートでは1男1女の父
今回の松本の拠点は、栞日(しおりび)
コンセプトは「ちいさな声に眼をこらす」。国内の独立系出版物を中心とした新刊書店で、喫茶も併設。2Fの企画展示室では写真展や絵画展も行っています
PHOTO/MASAHIRO SHIMAZAKI WRITING/NAOKO OGAWA
※メトロミニッツ2021年8月号特集「本とステイケーション」より転載